翌朝は早い。赤間亨さんの実家、つまり赤間松次調教師宅は当然ながら管理する馬達の調教をするため暗いうちから始動する。午前6時頃、昨夜の酒も抜け切らぬまま雑賀正光さんと一緒に新潟県競馬の調教馬場を訪れると、赤間亨さんはすでに馬上の人だった。
この時点での天候は薄曇。すでに朝日はかなり昇っていて十分な明るさで馬場を照らしている。絵に描いたような素晴らしい光景。昭和三十年代を髣髴とさせる背の低い厩舎群から砂地の広場に柵を建てたような風情の調教コースに馬が行き交う様は、いや本当に素晴らしい光景である。伸びやかで活気があり、人が馬にかける声がひっきりなしに空へ抜けていく。この調教風景、あるいは飼い葉をつける風景というものは競馬という世界の最も感動的なシーンだと感じることがよくある。ジーパン姿で乗り運動を続ける赤間さんの姿もその風景の一部分。後に赤間亨厩舎所属でダートグレード競走を渡り歩いたエビスヤマトも、この調教風景の中から飛び出してきたのだと思うと感慨は深い。
その調教風景の奥に隣接するのがJRA新潟競馬場。境界線を一歩またげばそこは平成の近代的風景へと豹変する。赤間さんと賀藤さんが今日のレースを迎える戦場だ。巨大なスタンド、ターフビジョン。芝コースの緑が良く手入れされた絨毯のように広がっている。
その芝コースの奥にダートコースがある。新潟県競馬が借用しているのはそのダートコース。ラチ沿いから観戦してもちょっと遠い場所で、人馬の息遣いを感じるという地方競馬ならではの楽しみはない。もっともこれだけ近代的な施設でレースを行う地方競馬も他にないわけだから、良くも悪くも「新潟競馬場で行われる新潟県競馬」の特徴だと言えよう。
調教が終わり、赤間さんの自宅で朝食をご馳走になった。茶碗の上で半透明にキラキラと輝く宝石のようなご飯。後に上山の温泉旅館で食べた朝食のご飯も美味しかったが、赤間家の食卓で普通に出た普通のご飯というシチュエーションが感動を増幅させる。西日本在住だとなかなか出会えない朝食であるのは間違いない。
いよいよ競馬場へ出発する。出陣と言った方がいいか。上空は先程より雲が多くなり、今にも泣きそうに鉛色を濃くしていく。どうやら雨が降るのは間違いないようだ。競馬場までは歩いて移動する。スタンドの端、ゴール板を過ぎた辺り(当時は右回り)の一階にある関係者用の食堂で賀藤さんも合流した。装鞍所もパドックもスタンド裏手の遠い場所だから、調教師らがここを起点にして行動することがあるようだ。レースになると食堂からスタンドの前に出て観戦できる。
「今日のうちに高知へ帰らんといかんのよ。調教もあるしね」
すまなそうに雑賀さんが告げる。ここまで案内してもらって申し訳ないのはこちらの方だ。
賀藤さんと赤間さんは当然ながら臨場業務があるから、僕はとりあえず自分の分野を見学させてもらうことにする。メインレースの頃に再びこの食堂で賀藤さんと合流するという段取りだ。
「晩には今日のレースの交歓会があるから、一緒に出席させてもらったらええよ」
雑賀さんが気軽に提案した。賀藤さんも「分かった」と相槌をうっているが、こちとら昨日と変わらずアロハシャツスタイル。こんなことならワイシャツとジャケットくらいはもってくるんだったと反省するも、後の祭り…。
しかしジャケットが必要になるのは、予想よりも早い段階だった。南関東や金沢、新潟で場内実況業務を請け負う「耳目社」の増田勝美アナウンサーが仕事をしているスタンド上部のエリアは吹きさらし。雨が降り出して風が強くなってくると、ベテラン増田さんの実況を見学させてもらう間にも体が震え出す。気温は二十度を切っていただろう。アロハシャツ姿を心から後悔した。見かねて映像関係のスタッフがジャンパーを貸してくれる。
ありがたいやら、情けないやらでいたたまれなくなってきた。
黒雲は勢いを増し、激しい雨に変わってくる。照明設備が辺りを照らすと、まるでナイター競馬のような雰囲気だ。巨大なスタンドから見るコースは遠い。芝コースでも遠くに感じるのに、奥のダートコースは更に遠く感じる。豆粒のような馬達が明かりに照らされて走っている。ザーッという雨の轟音にかき消されて蹄音は聞こえない。競馬だから、こんな日もある。自然現象ばかりはしょうがない。そう自分に言い聞かせた。
スタンドの中ではJRAの場外発売が行われていた。そう土日に新潟県競馬の開催を行う場合は、本来の建物の持ち主である中央競馬の発売を並行して行うようだ。廊下を歩いていく人々の声が聞こえた。目の前の新潟県競馬ではなく、モニターの中の中央競馬のレースが当ったとか外れたとかいう話題である。全国各地の競馬場を紹介するガイドブックにはこうあった、曰く「中央競馬と地方競馬がとてもいい形で共存している競馬場」であると…。当時まだ競馬の世界にやって来て二年目。目で観た事象をそのまま把握し、判断できる知識や経験はない。オーストラリアのTABやアメリカのサイマルキャストのような実効的な共存共栄の形を知るのはまだ先の話である。
はてさて気を取り直そう。メイン競走「日韓チャレンジカップ」の登場である。
日韓ChC A1
1995年 7回 第05日 新潟
10R ダ1,600 10頭
賞金 1着:150.0 2着:52.5 3着:25.5
4着:15.0 5着:12.0(万円)
枠馬 馬名 性齢
斤量 騎手 厩舎
11 ワイエスバット 牝4
55 山田信大 渡邉十郎
22 ニノウジオージャ 牡4
54.5 洪成昊 横山孝四郎
33 ムーミンジュニア 牡4
55.5 森川一二三 赤間松次
44 ラブリーセーミ 牡4
54.5 崔峰嗾 村岡 洋
55 アタゴゴッド 牡4
57 李成一 賀藤安昭
66 ロッキータイム 牡4
54.5 大枝幹也 佐藤忠雄
77 スマノロメオ 牝4
55 向山牧 佐藤忠雄
78 ホマレソフィア 牡4
54 洪大裕 高橋鐡雄
89 キャプテンシー 牡4
55 榎伸彦 岡 史郎
810 ファインスター 牡4
54.5 禹彰九 清野忠雄
スタンド一階の食堂に戻ると、そこにはすでに賀藤安昭調教師と賀藤さんの奥さんが待機して自厩舎の一番人気馬の本場場入場を待っていた。夫妻にとっては“戦場という日常”である。なにかしら話し掛けにくいムード。この場所から見てもダートコースは遠い。豆粒のように小さな愛馬の一挙手一投足を見逃すまいという緊張感が漂う。
「あの手紙は渡しましたか?」
思い切って聞いてみた。すると賀藤さんは、
「ああ、渡したよ。(李成一騎手は)分かりました、って言ってた」
と、やや安心したような表情で返してくれた。
手紙とはもちろん、韓国料亭「李朝」の女将にハングルで代筆してもらった騎手への指示を書いたメモを指す。断然人気のアタゴゴッドは普通に乗れば勝てる。ただし早めに抜け出すとソラを使うから、先行せずに好位で控え、直線半ばで先行馬を交わすようにという内容だ。馬の能力や仕上がりに自信があるからこそ、ここまで騎手への指示にこだわる采配となるのだろう。その指示は「手紙作戦」で伝わった。もう後は祈るように見守るしかない。
夫妻の後ろで沈黙の時間を過ごす。本馬場入場からゲート裏までの長い長い時間。雨は勢いを保ち、完全な不良馬場。ファンファーレが鳴ったのは覚えていない。我々から見て右奥、ターフビジョンの辺りでライトに照らされ浮かび上がる十頭の枠入り。澱んだ上空の風景を打ち払うようにゲートが開いた。聞こえないはずのガシャンという音が聞こえる。
いつもは緊張する瞬間だが、なぜか儀礼的に見えた。李成一騎手とアタゴゴッドが素晴らしいスタートを切る。他馬よりも体半分は先に出ただろう。喜ぶべき瞬間。しかし李騎手はこの好スタートを誇るかのように手綱をしごき、九頭をひきつれての先行策に出た。
「あっ」
声にならない叫び。猛烈なスピードでいくつもの思考が脳内を駆け巡る。なぜ、というつぶやきもある。不良馬場だけに逃げ切りも、という願望に近い楽観もよぎる。長い長いバックストレッチ。アタゴゴッドは快調に先頭を行く。賀藤夫妻の背中からも読み取れる疑問と不安の混ざった感情。四コーナーでもアタゴゴッドは手応え十分。韓国を代表してやってきた騎手は勝利インタビューでの喜びの言葉を考えていたかもしれない。
長い長い直線。記憶はスローモーションのようにしか再生されない。残り二百メートルを切って突然手応えを失うアタゴゴッド。豆粒のような大きさにしか見えないはずの李騎手の慌てる表情が分かる。二番手につけてこの瞬間を待っていた新潟リーディングジョッキー、向山牧騎手が二番人気スマノロメオの鞍上で大きなアクションを見せる。本当はみるみる差が詰まっていくのだろうが、記憶の中ではじりじりと体勢が変わっていく…。
1995年07月16日 雨 ・不良
日韓ChC A1
1995年 7回 第05日 新潟
10R ダ1,600 10頭
賞金 1着:150.0 2着:52.5 3着:25.5
4着:15.0 5着:12.0
着馬枠 馬名 性齢
斤量 騎手 タイム 着差
人気体重 厩舎
1 7 7 スマノロメオ 牝4
55 向山牧 1:44.2
2 414 -6 佐藤忠雄
2 5 5 アタゴゴッド 牡4
57 李成一 1:44.5 11/2
1 420 -2 賀藤安昭
3 3 3 ムーミンジュニア 牡4
55.5 森川一二三 1:44.6 1/2
5 444 +2 赤間松次
4 9 8 キャプテンシー 牡4
55 榎伸彦 1:44.8 1
3 428 -2 岡 史郎
5 2 2 ニノウジオージャ 牡4
54.5 洪成昊 1:44.9 1/2
4 476 0 横山孝四郎
610 8 ファインスター 牡4
54.5 禹彰九 1:46.1 6
9 420 0 清野忠雄
7 1 1 ワイエスバット 牝4
55 山田信大 1:46.4 11/2
7 460 -4 渡邉十郎
8 4 4 ラブリーセーミ 牡4
54.5 崔峰嗾 1:46.5 3/4
10 466 +2 村岡 洋
9 6 6 ロッキータイム 牡4
54.5 大枝幹也 1:46.6 1/2
8 476 0 佐藤忠雄
10 8 7 ホマレソフィア 牡4
54 洪大裕 1:50.4 大差
6 426 -2 高橋鐡雄
奥さんが賀藤調教師の腕を抱いた。
「俺、なにか悪いことしたかな」
賀藤さんはぼつりと言って、それからおし黙った。上空を暗く覆う雲。降りしきる雨の中、夫妻は寄り添ったまま馬場を見ていた。
それから数時間が経ち、新潟市内のホテルで行われた交歓会が終わった。アロハシャツ姿で交歓会のような公の場にいると、ほとんど異邦人扱いである。僕は一人その晩の宿であるビジネスホテルに歩いて向かった。たった十五分ほどの道のり。でも前日からの出来事を反芻しながらだと、果てしなく長く感じる時間だった。雨は小降りになっていて傘が無くても大丈夫だったけれど、相変わらず気温が低いのには困った。
その後の事を報告しよう。まず僕は赤間さんと賀藤さんにお礼の品を送った。お酒を飲まないという赤間さんには果物。そして賀藤さんには「百年の孤独」という宮崎県高鍋町産の長期熟成焼酎だ。この「百年の孤独」は焼酎ブームの火付けに一役買ったこともあり、現在ではプレミアが付くほどの人気だが、当時は比較的手に入りやすかった。宮崎空港で数本まとめ買いをしたこともある。お酒に詳しい義兄によると「樽の香りを付ければスコッチになる」そうだ。なんといってもネーミングが秀逸。長い長い時間をかけてこの味が出るのだということを一言で表している。
賀藤さんから電話がかかってきた。アナログ固定回線での遠距離通話らしい、高音の落ちた懐かしい声だった。
「あれ、あの酒とてもうまかったよ」
「うまかったよ」の言葉に実感がこもっていた。奥さんが代理に、ではなくご本人がわざわざ電話してくれたのだから気に入ってもらえたのだろう。まだブームになる前の焼酎だったが、こちらも自信を持って送ったのでうれしかった。また手に入ったら送ります、と伝えて電話は終わった。
それからしばらくしてリワードタイタンという馬が雑賀正光厩舎にやってきた。栗毛ですっと伸びる四肢が垢抜けた印象の未出走馬。中央デビューの予定も仕上がらなかったそうだ。最初に新潟の賀藤安昭調教師に話があったが、まずは高知で時間を掛けてデビューし、2着3回のあと初勝利をマーク。そこからバトンリレーの形で賀藤厩舎へ移籍するとあれよあれよと出世を重ね、交流重賞の群馬記念(8着)や東京盃(6着)に挑戦するまでになった。しかし活躍はまだ終わらない。旧7歳には念願の中央競馬転入を果たし、函館の準OP・大沼Sを見事優勝するのだ。ちなみにこのレースで負かしたのが後のG3ハンター、オースミジェットだから価値は高い。重賞・エルムSでも後の南部杯馬ニホンピロジュピタの3着になった。高知デビューの馬が中央で活躍した数少ない例の一つだが、その裏には雑賀さんと賀藤さんの連携があったのだ。
赤間亨調教師がその管理馬エビスヤマトで辿った足跡も味わい深い。新潟ダービーを勝った地元の星は、ダートグレード競走に遠征を繰り返し、十九度の出走で八度の掲示板という立派な成績を残した。内訳は二着、三着、四着、五着を二回ずつ。高知のミストフェリーズや金沢のトラベラーらと共に「ダートグレード競走の旅がらす」と形容されたほど全国各地で走り、その決め脚で場内を沸かせた。ハイライトは盛岡で行われた平成十二年のマーキュリーカップ(G3)。前半のハイペースで一杯になったオースミジェットを追い詰めたのがエビスヤマト(二着)、ミストフェリーズ(三着)、トラベラー(五着)の三頭だった。またエビスヤマトは平成十三年の新潟・朱鷺大賞典(G3)でも二着になっているが、残念ながら新潟県競馬がこの後廃止になったため、地元での出走はこれが最後になってしまった。そう、あの素晴らしき新潟県競馬の調教風景はもう見ることが出来ないのである。赤間さんは高崎、金沢と所属を変えながら今も頑張っている。
この話の最後は、新潟県競馬廃止の前の時間にさかのぼる。
ある日、雑賀正光調教師とリワードタイタンの話をしていた時、ふと賀藤さんは元気にしていますか?と聞いてみた。
「それがなあ、橋口さん。先日病気でなあ…」
またしても色々な事柄が脳裏を駆け巡った。勝利の栄光で飾られたリビング。はしゃいでいた女の子たち。「李朝」の女将にお願いをしている時の表情。アタゴゴッドが手応えを失ってあえぐ姿。「俺、なにか悪いことしたかな」の言葉と、ずっと寄り添っていた奥さん。遠くから聞こえるような「うまかったよ」のうれしい声…。
新潟の雨の記憶は辛く、切ない。ただ、勝負に懸けた賀藤さんや赤間さんの姿は記録に残しておかねばならない。今思うことはもっと早くもう一本「百年の孤独」を送っておけばよかった、その一点だ。