「GP通信版ジョッキーズ・トーク」。ひとまず最初のシリーズを締めくくる3回目は昨年度リーディング3位に躍進した倉兼育康騎手の登場である。まずはいつものように簡単なプロフィールから紹介しよう。
倉兼育康騎手
1975年11月10日大分県生まれ(29歳) 松下博昭厩舎
初騎乗日 1995年10月9日 初勝利日 同年10月10日
通算成績(7月26日現在)5729戦 657勝(重賞8勝)
主な勝ち鞍
南国王冠高知市長賞(ダスティー)
南国優駿3勝(チーチーキング、カミケンマック、コスモユーメー)
珊瑚冠賞(スーパープレイ)
人生には光と影がある。といっても運命論ではなく、試行錯誤の繰り返しによって目的を達成しようとする姿についての話だ。概ね人間は失敗を重ねる。
その後、何らかの正解を「見出したように感じて」成功体験を得る。だがしかし、この成功体験によって次の失敗を犯す危険性は高まる。この繰り返しこそが「成長すること」の本質かもしれない。
倉兼育康騎手は「僕は先にいったんボコボコにされた方がいいんです」と笑いながら言う。「デビュー時に僕ほど下手だったのは、後からデビューした騎手には誰もいないですもん」とまで付け加えた。昨年度のリーディング3位にまで成績を伸ばしたこの騎手は、どういう「失敗」を推進力に換えたのだろう。
ところで皆さんはパラグアイという国をご存知だろうか。南米大陸ほぼ中央の内陸部に位置し、農牧業と林業が主な産業で、人口は500万人弱。公用語はスペイン語である。日本との国交は1919年に樹立され、1930年代からは日本人の移民を受け入れている。この日系コミュニティーを母国・日本で有名にしたのは、高知商業高校のエースとして甲子園に出場、専修大学を経てプロ野球・ヤクルトスワローズでも活躍した岡林洋一投手だ。パラグアイは南米だけにサッカーが盛んだが、日本人の間では野球も人気がある。あるいは未来の岡林投手に憧れて練習に励んでいた少年が、今回の主人公である。
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テーマ1 ☆☆ 倉兼少年 36時間の大冒険! ☆☆
- 南米のパラグアイで少年時代を過ごしたのですね。
「はい、生まれたのは大分で3歳になってパラグアイへ行きました。おじいちゃん達が先に行ってて、後から両親と向かったんです」
- パラグアイでの生活はどういうものでしたか。
「いとこの家族らも一緒に一族で牧場を経営しているんですよ。土地がとにかく広くて僕の家から隣まで1キロ…、うーん数百メートルはありました。だって間に野球場がありましたもん(笑)。反対側のとなりの家との間にはテニスコートだし、奥に見える山のほうまでずっと敷地でしたね。牛を追うのに馬を使うんですけど、いとこ達と馬に3人乗りしたりしてました。その頃はまさか騎手になるなんて思ってもいませんでしたけどね」
- 日本人の方も多いんですよね。
「その地域で数千人はいますよ。日本人学校があって、スペイン語学校にも通ってました。食べ物も普通に納豆とかあるし、週刊誌やマンガ、あと日本のテレビ番組を録画したビデオなんかも見てましたから、ほとんど日本にいるのと同じです(笑)。少年ジャンプ、マガジン、サンデーにアイドル雑誌の『明星』まで見てました。えーと当時はテレビだと『あぶない刑事』が始まった頃でしたね。アイドルでは南野陽子さんが人気で、マンガだと『タッチ』とか『キャプテン翼』ですかね」
- 少年野球で大活躍だった。
「少年野球の軟式世界大会でパラグアイ代表チームとして日本の東京・横浜に遠征したことがありました。パラグアイ代表なのに全員が日本語ペラペラ(笑)。日本人ばっかりなんですよ。その大会で日本のチームはレベルが高いなあ、と思いました。ポジションはなんでもやりましたね。最後はキャッチャーでキャプテン。で、中学になるとむこうで野球の監督をしていた人が日本で野球をしようって熱心に誘ってくれたんです。最初は断っていたんですけど、『将来のこと何か考えているのか』って言われて最後には日本へ行く約束をしたんです」
- 家族のいるパラグアイから、中学生が一人で日本へ行くんですね。
「両親は最初反対でした。でも僕がもう約束したからというと、(受入先の)梼原町を下見に行ってくれました。『右見ても左を見ても上を見ても後を見ても山だったぞ』ってびっくりしてましたね(笑)」
- ご両親も寂しいでしょうね、そしていよいよ出発。
「パラグアイからは飛行機で(ブラジルの)サンパウロ、アメリカで乗り換えて日本まで36時間くらいかかりました。ブラジルに行くとスペイン語じゃなくてポルトガル語だから、ここでもう言葉が通じない(苦笑)。空港内でどこに行ったらいいのかも分からないんですよ。身振り手振りでパスポートと航空券を見せて『トウキョウ、トウキョウ』ってもうそんな感じで。アメリカに行ったら今度は英語がさっぱり分からない(笑)。飛行機を降りたところで人の列が分けられているんですよ。状況が分からないから航空券を見せたら『こっちへ来い』って1人だけ別にされて地べたに座らされた。どうもパスポートを見せなきゃいけなかったみたいで、それでカバンからごそごそパスポートを取り出して見せたら係員が『行って構わない』って言ってくれた。それで安心して行こうとしたらいきなり別の方向から3人位が走ってきて引っ張って行かれそうになったんですよ。相手が何を言ってるか分からないだけど、どうも逃げたと思われたみたいで…。まあ、向こうもこんな小さいのが何をしてるんだって感じでしょうね。よく1人で来たなあと思いますよ。日本に着いて、ここから新幹線とかで移動したんですけど、もうなんにも恐くない。だって日本語が通じるから(笑)」
倉兼育康少年はこうして面倒を見てくれる人のいる高知県梼原町へ。梼原中学では初めて本格的に挑む投手というポジションで、相当なセンスを見せたという。ただし身長は伸びなかった。少年野球で遠征した際にレベルが高いなと思ったという日本の野球が、また少し遠い所へ行ってしまった。進路を決める時、中越豊光騎手にジョッキーを勧めたという教頭先生が、倉兼少年にも同じ道を進まないかと声を掛けた。
テーマ2 ☆☆ ひとり、ではない ☆☆
- 騎手学校(地方競馬教養センター)には最初馴染めなかったとか。
「最初はいやいやというか、騎手になりたかったわけじゃない、と自分がちょっと意気がってたところもあったんでしょうけどね。日本での人付き合いを学ぶきっかけになりました。パラグアイだと野球チームなんかでももう少しサバサバした雰囲気でしたからね。ただ、日本人の付き合い方を知ったのは、自分にとってもプラスになったんじゃないかと思います」
- パラグアイでの乗馬経験が役に立ちましたか。
「いやもう全然、あれは遊びで乗ってただけですから。学校ではいつも下の方(の成績)で、いつも追試でした。体重も重かったし、落ちこぼれですね」
- 平成7年の秋にいよいよ騎手としてデビューしました。最初の半年は10勝に終わるも、2年目に63勝と躍進します。
「デビュー当時は調整ルームに入って2~3キロは落とさないといけなかったのが、ある日突然、全然落とさなくて良くなったんですよ。10月デビューで半年終わったら4月ですよね。暖かくなって、また仕事も遅くまで(昼過ぎまで)やっていたから自然に落ちたんじゃないですかね。それからは減量ってのはほとんどないんですよ。それからレースで楽に乗れるようになったのが大きかったですね」
- 乗せてくれる厩舎も増えた。
「常に親身になって面倒見てくれる人がいて、僕はそういう面でとても恵まれています。パラグアイでも野球でもそうですし、騎手学校でもすごく可愛がってくれた教官がいて助けてもらいました。高知競馬でも感謝しなければいけない人がたくさんいます」
- 日本でもひとりじゃなかった。
「1人では生きていけないですよね」
倉兼育康少年は、たくさんの人々と関わってプロの騎手となった。
テーマ3 ☆☆ チーチーキング ☆☆
- 競馬を教えてくれた馬はいますか。
「やっぱりチーチーキングじゃないですかね。それまでは前から行く馬でしか勝ったことがなかったんですが、“差す”という感覚を教えてくれたのがあの馬でした。相手を見ながら競馬をしないといけない、と自分に分からせてくれたんですね。小柄だけどパワーがあって、本当に走る馬でした」
- 難しい馬だったと聞いてますが。
「すごく入れ込む馬でしたね。調教から掛かってしようがない。それでそこから直して自分が乗りやすいように調教していきました。あの世代は強い馬が多かったじゃないですか、アポロスイセイやエムエスベッカーなんかがいて。それを負かすために工夫をしなきゃいけない。それまで前々の競馬をしていたけれど、ダービー前に古馬とやるレースで印も薄くなったので思い切って後から行ってみたらもうごぼう抜き!(笑)。あっ、これだということになって南国優駿(アラブダービー)でも他馬が止まって見える位の末脚でした」
- 追い込みにすると掛からなくなりましたか。
「いや、後から行っても掛かるんです。そこを落ち着けながら乗るんですけどレース前はいつも掛かるのをどうしよう、と考えていました」
- 南国優駿の後は荒鷲賞も勝って、福山の全日本アラブグランプリで3着となりました、ただその後の南国王冠は疲れもあってか5着…。
「あれは自分のミスですね。馬を抑えすぎてしまったんです。初めての古馬オープンへの挑戦とか距離とか、自分が考えすぎました。もう少し馬を信じて乗れば良かったです、馬にかわいそうなことをしました。遠征の疲れもあったかもしれないけど、やはり自分では納得できない。その後、乗り代わりになりましたけど仕方ないです」
- 反省する時も考えすぎてしまうタイプ?
「先輩騎手からもよく言われます(笑)。『お前は考えすぎちゃ』って」
- 緊張するタイプでもある。
「すごく緊張するんですよ。それでレース前にトイレに行くんですけど、以前はそこで必ず北野真弘騎手と一緒になってました。この二人が必ずトイレに行かないといけない(笑)」
- 北野騎手も緊張するほうなんですね。
「カイヨウジパングの三冠目のレースかな。いつものようにトイレで一緒に並んでたら『おい、これ見てみいや』って言うから見たら、もう腕がガタガタ震えているんですよ。それで『そんなんでレース乗れるんですか』って聞いたら『おうっ』って。ただいったん馬に乗ったらもうそんな素振りは全く見せない。
それで、ああ緊張するのは悪いことじゃないんだって、無理に抑えず緊張とうまく付き合っていこうと思いました」
テーマ4 ☆☆ レースが楽しくなってきた ☆☆
- この3年間は80、90、100台と順調に勝ち星が増えてきて、そしてついに昨年度のリーディング順位も3位にまで上がりました。
最近はレースに乗るのが楽しいそうですね。
「乗れば乗るほど難しくなってきたんですよ、馬乗りというものが。それまでに全然なかった感覚が生まれてきて、それから楽しくなりました。上位騎手のこの人はどういう感覚で馬に乗っているんだろうとか、そういうことを考えるようになったんです」
- それは何年前位からですか。
「5年前位からですかね。レースで負けた時にやられたな、悔しいと言いながら、道中を楽しむようになったんですよ。人を見るようになった、相手を見るようになった。まだまだ少ししか見えてないんですけど、それから面白くなってきたのは事実です」
- デビュー10年の内、ちょうど半分ですね。
「だから、もっと早くこんな感覚でいたら良かったんだろうなあと思います。
徳留さんや北野さんがいた頃にも、そういう見方を出来ていたらとね。去年、西川さんが独走していった時に、ああ僕らも頑張らんといかんなあという気持ちになりました。別に使命感とかではないんですけど…。だからちょっと西川さんや中西さんをいじめてやろうというかね、そうやって相手を探りながら楽しむんですよね。トップの騎手が本命や対抗に乗った時にどんな風に、どう乗るのかを見るのが面白いです」
- そうやって騎手も馬もよく研究しているわけですね。
「馬も500頭全部が分かるように努力してますよ。調教中にもちょっと何気ない会話で『新馬やねぇ』って聞いてみたりしてね(笑)。好きなんですね、馬が」
- 努力といえば騎手のスポーツジム通いの元祖は倉兼騎手だった。
「もう7年位になりますね。最初はあまり真面目に通わなかったんですけど、30歳が近付いてきて、今の体力を維持しておかないといけないなと感じて頑張ってます。筋トレとエアロなどの有酸素運動ですね。たまに泳いだりして。
中西さんが若手を誘ってからジムに行く騎手が増えましたよ。僕は将司(上田騎手)を誘って一緒のジムに行ってます」
- 数字的な目標で言うと、次はリーディングジョッキーということになりますね?
「いや、それより自分の技術を上げるのが先です。もっと高いレベルでレースを出来るようになりたい。上の人たちはすごいですからね。リーディングジョッキーは『取って当たり前』だと言われるようになってからです。そこまでの技術を身に付けたいんですよ」
- 自分に厳しいですね。
「僕は失敗して、そこから良くなるタイプ。飲み込みなんかも遅いし、徐々に時間をかけて何年もかけてうまくなっていこうと思ってます。最近の若い騎手はポーンと本命で結果を出しますよね。上田騎手のスマノガッサン(南国桜花賞時に騎乗して優勝)なんか、自分に出来なかったことを簡単にやってしまう。
それから先輩の修次さん(赤岡騎手)なんて、学校から帰って来た時とても追いつけるような人じゃなかった。あの人はうまいですから。全然自分と違う。
でも、(このコラムのインタビューで)西川さんが言ってた通り、修次さんに負けたくないって意識はありますよ。普段は仲いいんですけどね」
15歳でパラグアイからやってきて、いつしか本物のプロになった倉兼育康騎手。牧場に育ちながら生き物相手の仕事は休みが取れないから嫌だなあ、と思っていた少年がいつの間にか騎手という仕事に楽しみを覚え、馬が好きですからと語るようになっていた。「高いレベルのレースをしたい」という欲求はこれから更に成長しようという倉兼騎手が、我々に見せてくれる最高の騎乗への予約券として大切に覚えておこうではないか。
テーマ5 ☆☆ スポーツとして ☆☆
- これからの理想の高知競馬とは?
「オーストラリアに行った時(2000年2月、高知競馬4騎手が交流騎乗した)に、ああいいなあと思いました。ああいうオープンな雰囲気になって欲しいですね。自分達はスポーツとして見てもらいたいんです。お客さんがたくさん入ってくれているとやっぱり燃えるんですよね(笑)。みんな頑張っていますので、応援よろしくお願いします」