現実社会でたやすく楽しむ事が出来ないカタルシス。例えば誰にも負けようがないと自他共に認める気取った“絶対的存在”が、思わぬ伏兵に足をすくわれるといった瞬間。それからもちろん自己を“絶対的存在”に重ね合わせる喜びもあるだろう。ファンとして観戦するスポーツの醍醐味は現実を忘れさせてくれるこんなカタルシスにある。スポーツ選手は昔よりも庶民的になり、それでいて国際的な活躍の場を増やした。21世紀が予想通り“スポーツの時代”となるのであれば我々が平和を享受している証拠ともなり、決して悪い状況ではない。
ただし勝った負けただけがスポーツではないから、そんな時代にはワイドショー的な要素より一歩踏み込んだスポーツ報道も必要になってくる。イチロー選手が何安打でした、とだけ伝えてマリナーズの勝敗を言わないニュースはもはやスポーツ報道ではない。オリンピックだって金がいくつで銀がいくつといったメダルの数のみにこだわる不本意な伝え方が目立つ。中には勝因、敗因からその背景、戦術や調整過程まで詳細に伝えるメディアもあるが、残念ながらこれらは少数派である。
今年は春に野球の国別対抗戦WBCが行われた。決勝ラウンドに進んだ各国はいずれもレベルが高く、こうなると勝敗は「チームとして機能したかどうか」や「投手力を含めた総合的なディフェンス能力の高さ」によって決まる。日本チームが結果的に優勝できたことは嬉しかったが、これをもって日本の野球がメジャーリーグベースボールを“越えた”と考える人はいないだろう。勝つための野球は、不本意でも確率の高い戦術を選ばせる。個人的な感想としては効率化社会の悪夢を見るようだが、これが進んでいった先には力いっぱいに投げ、力いっぱい打ち返すという本質とは隔絶した別のものが現れるだろう。アレックス・ロドリゲスのパワー溢れるプレーやバリー・ボンズのホームランはたくさんのファンを球場に呼ぶが、“魅せて勝つ”のがプロだという考え方は残念ながら勝利至上主義とは馴染まないかもしれない。
スポーツ報道においては上記のWBCのような事情はどう取り扱われたのだろうか。スポーツの世紀におけるプロとアマ(定義の解釈はおまかせする)の関係はメディアやスポンサーの存在とも相まって、もう先送りに出来ない課題になっているはずなのだが…。
さて翻って競馬はどうだろう。近代競馬は英国発祥だけに、元々は“達観的資本主義”に沿って発展した。降着ルールなどに見られるわずかな例外を除くと、他のスポーツのような“迷い”もなく非常に良く出来た制度を持っていると言えるだろう。惜しむらくは英・米・豪以外の国に行くと、それぞれの文化に合わせた自由度しか持ち合わせていない競技に変わることであるが、それらも昨今の国際競走の舞台において奇異にうつるほどの障害ではない。というより、世界中に広がった競馬文化の違いを楽しむのが国際競走の醍醐味だという前提が成り立っているところに、競馬の懐の深さを見る。
競馬を切り取る視点は無数に存在する。だからこそ好きになったのだろうなとも思える。馬券の研究はもちろん、動物学としての馬、騎手、飼養管理、調教、厩舎や競馬場の経営、レースに関するスポーツ的考察、各国の歴史や社会との関係、馬名、血統、名馬史などなどにそれぞれの研究者がいて膨大な著書を発表している。多種多様な価値観を容認するのが民主主義であるならば、それを体現し、近代に至る人類の歴史をも内包している“競馬”を研究するのに時間が余るという事はない。
前置きが長くなった。筆者が競馬について考えていて行き詰まった時に、一息付こうと手に取るのが「マイオールドケンタッキーホーム」(自由国民社、A・ベイヤー競馬コラム集、山本尊訳)。2000年4月30日初版とあるから、もう6年、いつでも読めるように書斎の一番手に取りやすい所に置いてある。競馬ファンや関係者の方で読まれた方も多いと思う。帯書きには「どうしてこんな競馬コラムが日本にはないんだろう?」とあるが、なるほどワシントンポスト紙の人気連を日本に紹介したこの一冊は筆者を夢中にした。まずパンチを食らったのはこの一節だ。(以下引用)
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質の面でアメリカの競馬をヨーロッパの競馬と比較した場合、ぼくたちが劣等感をもつのももっともかもしれない。ケンタッキー・ダービーでリルイーティーがどさどさとした感じで二〇〇〇メートルを二分四秒〇で走り一着になっても、アメリカ人としての誇りがわきあがることはなかった。
だが、アメリカの競馬にはぼくたちが当然至極と思っているような長所もある。それはとても競争心が旺盛なことである。調教師やオーナーは様々な条件のレースに自分たちの馬を出走させるし、そうしなければ臆病者と侮られる。
となると競走馬もその要求に応じられるようにタフでなければならないことになる。
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(引用終わり)
フランスからやってきてBCジュブナイルをとんでもなく強い勝ち方で制したアラジが、翌年のケンタッキーダービーで初めて凡走すると、リベンジも考えずに帰国してしまった時のコラムの冒頭である。翻訳も素晴らしいのだと思うが、この文章の一番のポイントは競馬を介してベイヤー氏が感じた事を観察者的な視点で淡々と述べている点にある。あくまで観察者的に、それでいてしっかりと自分の意見や感情を盛り込んでいる。高揚する事はなく、主観を押し付ける事もない。他人におもねって「~ではないだろうか?」と問うわけでもない。
ベイヤー氏は「ベイヤー指数」という競馬予想において各馬の能力比較に使用するスピード指数の考案者として知られている。沢山の競馬場を転戦するアメリカ競馬の予想において、各馬の正確な実力比較は難しい。更には馬場状態による偏差や枠順の有利不利などが盛り込まれなければ時計だけの比較も意味がない。「トラック・バイアス」(馬場偏差)という考え方は日本のダート競馬にも使えるもの。こういったアングロ・サクソン文化らしいデータの取り方がまずベイヤー氏の基本だ。
またベイヤー氏も参加している「アメリカ競馬戦略 9つの頂点」(自由国民社、A・ベイヤーほか、平尾圭吾訳、2005年12月25日初版発行)でも展開している持論だが、全米各地のサイマルキャストを同時に楽しんで勝つための戦略がいくつかある。例えば自分の注目する馬(前走は不利があって負けたため人気が落ちている)の出走を狙うだとか、出来れば抜け目ないギャンブラーの少ない競馬場で戦うべきとか、単勝のころがしは控除率を複数回くぐらねばならないので高配当の賭け式を1度で当てる方が目的の勝利金額に到達しやすい、といった“観察者”たる知恵が並ぶ。
しかし一方で成功した者への賛辞や亡くなった者への感傷をテーマにする事も多い。競馬のような勝負の世界と言うのは事実を淡々と並べるだけで、ある人の伝記が出来上がったりする。ここでもベイヤー氏は“観察者”の立場を崩さない。現場の人たちを良く訪ね、適度な距離で話を聞く。苦言だって書ける。
ひとつの仮説を立てた。ベイヤー氏が素晴らしい観察者でいられる原因についてだ。欧米に多い一神教の場合、全てを知っているのは神のみであり、人間の考えが及ぶ範囲は誠に限られたものである。だから人間はあくまでも自分達が客観的に観測できる範囲の事までしか考えない。あとは神のみぞ知るのだ。
上のほうで“達観的資本主義”と書いた。なるほど競馬に森羅万象の出来事を凝縮したような性質があるのならば、寺山修司氏が「競馬が人生の比喩なのではない、人生が競馬の比喩なのである」と書いたとおりであろう。
多種多様な価値観を受容し、観察者的な視点を忘れずに…。筆者はまた行き詰まった時に、この「マイオールドケンタッキーホーム」を開く。そこにはベイヤー氏の視点を通して“競馬”の本質がキラキラと輝いている。